第 11 体 通勤電車の溜め息 (つうきんでんしゃのためいき)

埼玉県 / 図鑑番号 011 / 公開 2026-05-09

出身地

埼玉県全域。 特に大宮・浦和・川口・南越谷の駅のホーム、 京浜東北線・湘南新宿ライン・武蔵野線の朝の車内、 春日部・所沢の駅前のバス停。

姿

形のない薄い靄。 大きさは大人の掌が 2 つぶん。 色は灰色がかった淡い水色で、 朝のラッシュの時間帯にだけ車内の窓ガラスの内側に広がる。 動く時は人と人の隙間を縫って、 座席の足元に集まる。

特技

出る時と場所

時刻は朝の 7 時 14 分から 8 時 47 分の間、 そして夜の 22 時 8 分から 23 時 33 分の間。 場所は大宮駅の京浜東北線のホームの先頭、 武蔵野線の南越谷駅から武蔵浦和駅の車内、 そして 「あー、 また月曜日か」 と心の中でつぶやいた人の靴の周りの空気。

仲良くなる方法

通勤電車に乗っている時、 1 駅だけ目を閉じる。 「明日でいいことを」 ではなく、 「今日だけは早く帰ろうかな」 と心で 1 言つぶやく。 通勤電車の溜め息は、 座席の足元から立ち上がって、 あなたのリュックや鞄の隙間に静かに収まる。

家に帰った時、 鞄を玄関に置いた瞬間、 溜め息は鞄から出てきて、 ちょうどお風呂の湯気と混じり合って消える。 翌朝、 鞄を持ち上げると、 ほんの少しだけ軽くなっている。

ひとこと物語

通勤電車の溜め息は、 戦後の高度経済成長の中で東京に職を求めた埼玉の人たちが、 朝の 5 時に家を出て 22 時に帰る生活の中で、 電車の窓に向かって毎日 1 つずつ吐いた小さな溜め息が、 70 年ぶんに重なってできた。

溜め息は、 通勤を恨んだりはしない。 むしろ、 「みんなが今日も電車に乗ってる」 という事実を、 あなたの肩越しに 1 段だけ温かく感じさせる。 あなたのすぐ隣のスーツの人も、 反対側のスマホを見ているおばあさんも、 つり革を握る学生も、 みんな同じ車両で生きている。

溜め息が消える日は、 引退や退職を迎えた人が 「もうこの電車に乗らないんだな」 と最後の通勤の朝にホームに立った時。 その人の鞄の中に小さな水滴が 1 滴残り、 家に帰った後の最初の朝食のお茶の中に静かに溶ける。