群馬県全域。 特に嬬恋村のキャベツ畑の畦道、 草津温泉の湯畑の脇、 前橋の利根川の橋の上、 そして冬の空き地に立てられた農機具小屋の裏。
体はない。 1 通の薄い水色の封筒だけが、 からっ風の中に浮いている。 封筒の表には宛名がなく、 裏に小さな赤いハンコが 1 つ押してある。 風の方向が変わるたびに、 封筒は 90 度回転しながら次の場所へ移動する。
時刻は冬の昼下がりの 13 時 22 分から 15 時 47 分の間。 場所は風が吹き抜ける畦道、 古い家の風除けの板の影、 そして 「ちょっと寒いね」 と襟を立てた人の右肩の少し後ろ。
からっ風の吹く日に、 道端で 5 秒だけ立ち止まって、 風の方向を顔で感じる。 「冷たいな」 ではなく 「これが群馬の風か」 と思うと、 置き手紙はあなたの肩の少し後ろから前へ回り込んで、 一瞬だけ目の前に浮かぶ。
封筒を開ける必要はない。 中身は手紙ではなく、 風そのもの。 「ありがとう」 と心で 1 言伝えると、 封筒は次の旅人のところへ流れて消える。 帰り道に、 あなたの服の繊維の中に水色の糸が 1 本だけ紛れ込んでいて、 次の冬まで暖かさを保ってくれる。
からっ風の置き手紙は、 群馬の山から吹き下ろす冬の北西の風が、 何百年もの間に運んできた小さな声 (旅人の独り言、 農夫の溜め息、 子供の笑い声) を全部覚えて、 1 通の封筒の形にまとめたもの。
置き手紙は、 自分が手紙であることを誇っている。 群馬を訪れた人が 「冬は寒すぎて来づらい」 と思った瞬間、 置き手紙は風に乗ってその人の前を通り過ぎ、 「冷たさは贈り物だよ」 と封筒の角を 1 度だけ揺らす。
春が来ると、 置き手紙は風が穏やかになる中で、 桜の枝に 1 度だけ止まり、 次の冬まで枝の中で眠る。 翌年の最初のからっ風が吹く日、 また封筒の形に戻って空に浮かぶ。